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『あかるいほうへ』(日野裕太郎・にくきうー)

【サスペンス中編】
夏草が丈高く生い茂る空き地にぽっかりと開いていた穴。
史郎が転落したその穴は地上まで5メートルほどもあった。
穴はフラスコ状となっていて底の部分は10畳ほど。
穴の底が柔らかくふっくらした土だったから助かった。
しかし首から下が動かない、感覚がなく痛みも感じない。5メートルの高さから転落したのだ。無事なわけがなかった。
意識はあるが身体が動かない、重傷を負っている。

だが、史郎は穴の底でひとりではなかった。

そこには、血まみれの少女と、死体がひとつ。

ふたりとひとつの思いが錯綜する青春サスペンスストーリー。

文庫 約73ページ(1ページ 39字詰め 18行)

ざ、ざ、ざ、と妙な音がした。
音が近づき、それが足音だと悟る。いまそっちに行きます、との声。そっち、と指すのなら、穴は奥に向かって広がっているのだろうか。
ざ、ざ。
まるで足を引きずって歩いているかのような音だった。
「あの、だいじょうぶですか……?」
見えた顔は、まだ十代半ばと思われる少女。史郎は瞠目する。彼女の顔や服に血が散っていた。
「血! 血──怪我してる! 君こそだ、だ……っ」
「あ、あの無茶しないでください、だいじょうぶですか?」
とっさに叫んでむせた史郎を、少女が気遣った。
「わたしより、お兄さんの方が怪我ひどいじゃないですか……」
彼女は目をそらして言葉をにごした。自分のひどいありさまが予想でき、同時に本当にひどい怪我をしている、と知らされてがっかりしていた。
身体がまったく動かないのだから、もしかすると考えたくもないような惨事かもしれない。史郎はとにかく声が出たことと、少女がいた奇跡を天国の祖母に感謝した。
肩を超える三つ編みを二本垂らした少女は、あちこち血まみれだが、頭が潰れていたり腕が変な方向に曲がっていたりしているふうではなかった。彼女の大きな目が揺れていた。動揺しているのだ。

【ブログや掲示板で取り上げていただきました】

» 【株】高速道路のスレ 実質13くらい?【妹】
同人系の作家で雰囲気的にグロとか残虐な感じのやつかなって思ってたけどそんなにでもなくて割とスッキリとした感じでいい意味で裏切られた

【サンプル】

 起
 
 こんなはずではなかった、と幾度もくり返した言葉がまた現
われる。
 
 いくら悔いても反芻しても、終わらない。
 こんなはずではなかったのだ。
 
 愛しいと思ったのは事実だ。
 守りたいと願ったのも事実だ。
 
 
 これ以上ないほどに――
 痛めつけてやりたいと思ったこともまた、事実だった。
 
 一 暗い穴の底に
 
 あーあ、と史郎は胸のうちでぼやいた。
 怖がってしかるべきだったが、怖くなかった。
 気持ちのどこかが麻痺しているのか、これ以上ないほど穏や

かな、静かな気持ちで横たわっていた。
 史郎は穴に落ちていた――縦穴である。
 地面にまっすぐ亀裂が走ったような穴の先、フラスコ型に広
がっている。
 最初は枯れ井戸かとも思ったが、どうやら天然の縦穴らしい。
けっこうな広さがあり、かるく十畳くらいはあると見えた。穴
の壁や底はむき出しの土だったために、衝撃が吸収されたのだ
ろう、墜落した史郎は無事でいられたらしい。
 コンクリートが底に敷いてあったら、頭を打って即死してい
たかもしれない。
 運、いいかも――史郎は動けない身体のことは忘れて、のん
きに喜んだ。
 のんきに、助けが来るといいな、と視界の遠く、光の亀裂を
見て思う。
 夏の終わりだが、地下のためか暑くなかった。
 昼前、飲みものを買いに出かけたときは暑かった。
 家を出て曲がり角をみっつも曲がれば、水を浴びたように汗
だくになる季節だ。屋内と違い、太陽が照りつける往来は爽快
なほど暑かった。小学生が自転車でわきを走り抜けると、一瞬
だけ涼しい。

 史郎は裏山に入った。ゆるやかな傾斜のある土を踏む。山と
いってもたいしたものではなく、住人が抜け道に使うものだと
聞いていた。
 足でかためられた道を通ると、動くものが視界に入った。
 見れば女の子の後ろ姿。
 ざくざくと腰までの草を、むき出しの腕を振って入っていく。
三つ編みが背中で激しく踊っていた。
 裏山を抜けた史郎は、車道にある自動販売機で喉を潤した。
飲みものを追加して買うと、寄る場所もなく道を戻る。
 祖母の遺品整理のため、史郎ははじめてこの土地を訪れてい
た。
 伴侶を亡くして、田舎の安い一軒家を購入した祖母は、引っ
越してからたった三月で亡くなった。
 かくしゃくとしたひとだったが、同居した嫁――史郎の叔母
と折り合いが悪く、面当てのように田舎に越し、独居死を迎え
たのだ。
 家をふくむすべての財産は、史郎に遺された。
 祖母が生前にした手回しは万全だった。
 弁護士の談では、祖母は孫ばかり気にかけていたそうだ――
史郎の両親は交通事故で三年前に亡くなっており、祖母は孫と

暮らしたい、と漏らしていたという。
 もののすくないちいさな家は、それでも訪れた史郎には広か
った。祖母がちいさな背中をいっそうちいさく丸めて暮らす姿
が目に浮かんだ。祖母にすれば、自分よりも家は広大に感じら
れたのではないか――史郎は亡き祖母に対して、たまらない気
持ちになる。
 史郎は大学を出て就職したが、あっけなく会社が倒産した。
 祖母の遺品整理を機に、最前まで働いていたアルバイトは辞
めている。住む場所にこだわりがあるわけでもなく、職にあぶ
れ友人も片手で足りた。
 呼んでくれればたまには顔を出したのに、と祖母の顔を思い
出しても、後の祭りだ。
 飲みものを買いに出た帰路、さっき見かけた少女がこんなと
ころになんの用か、と史郎は思った。
 気が向いただけだった。
 雑草と木の生えた、変哲のない景色がある。
 草むらに足を踏み入れると、視界が大きく動いた。
 落下していたのだが、史郎はそうと理解できなかった。むし
ろ浮上するような感覚と、妙な暗さを感じただけだった。
 目測で深さは五メートルぐらいか。

 身体が動いたとしても、のぼれないだろう。尻ポケットの携
帯電話は無事だろうか。連絡先は警察か救急車か。いずれの番
号も思い出せず、案外混乱している、と自覚して、史郎はちょ
っと愉快になった。
 携帯電話を確認したかったが、やはり身体は動かない。指先
が動いているのかも、感覚だけではわからず、さきほどの愉快
さはどこへやら、ようやく史郎は状況がかんばしくない、と考
え直した。
 怖くなっていた。
 周囲の人間が史郎の非常事態に気づくのに、時間がかかるだ
ろうか。
 友人の顔を思い浮かべるが、どれもこれも自分がつかまらな
緊急事態が都合よく起こるだろうか? 祖母がからむと叔母が、
激昂するので、親類は誰も連絡をよこさない。いわんや、叔母
も連絡をして来ない。史郎は学生でもない。現在無職である。

 もしも携帯電話が故障していたら、と焦る史郎の身体は、や
はり動かなかった。
 声は出るか――いやなつばを史郎は飲み下した。ためしに声
を出そう、と必要以上に緊張する。

 史郎にとっては――いまの状況では、それこそ死活問題だっ
た。
 息を吸いこむ。
 
「あの……」
 ひゅう、と史郎の息が抜けた。
「だれ……?」
 声だった。
 若いというより、幼さの残った女性のもの。
「あ……あのっ、あの僕落ちて怪我して動けないんです!」
 言葉が一気に出た。
「身体がぜんぜん動かないんですけど……あのっ、あのっ誰で
すかっ」
 俺やっぱり運いいんだ。涙がにじんだ。
「あの、わたしもちょっと、動けなくて……待って……くださ
い」
 首から上しか動かすことができないため、周囲の確認はほと
んどかなわない。史郎は声のした方を見ようとしても、暗がり
がある、とわかるだけだった。
 ひとがいた安堵が、大きな息をつかせた。

 真上の亀裂からのぞく空では、ゆっくりと陽が落ちていこう
としていた。
 墜落してどれほど経っているのか。いびつな亀裂からさす、
凄烈さを欠いた午後の光の先、草や枝先のシルエットが揺れて
いた。
 見える。
 見えているから、大丈夫、死にはしない。
 ざ、ざ、ざ、と妙な音がした。
 音が近づき、それが足音だと悟る。いまそっちに行きます、
との声。そっち、と指すのなら、穴は奥に向かって広がってい
るのだろうか。
 ざ、ざ。
 まるで足を引きずって歩いているかのような音だった。
「あの、だいじょうぶですか……?」
 見えた顔は、まだ十代半ばと思われる少女。史郎は瞠目する。
彼女の顔や服に血が散っていた。
「血! 血――怪我してる! 君こそだ、だ……っ」
「あ、あの無茶しないでください、だいじょうぶですか?」
 とっさに叫んでむせた史郎を、少女が気遣った。
「わたしより、お兄さんの方が怪我ひどいじゃないですか……

 彼女は目をそらして言葉をにごした。自分のひどいありさま
が予想でき、同時に本当にひどい怪我をしている、と知らされ
てがっかりしていた。
 身体がまったく動かないのだから、もしかすると考えたくも
ないような惨事かもしれない。史郎はとにかく声が出たことと、
少女がいた奇跡を天国の祖母に感謝した。
 肩を超える三つ編みを二本垂らした少女は、あちこち血まみ
れだが、頭が潰れていたり腕が変な方向に曲がっていたりして
いるふうではなかった。彼女の大きな目が揺れていた。動揺し
ているのだ。
「……ああ、そうか」
 つぶやくと、少女は史郎の顔に頬を寄せた。看護婦が重傷者
にそうしているのを、以前なにかの映画で見た。
 少女はきれいな顔をしていた――美人と手放しに歓迎するに
は年齢差が大きい。
 彼女が救い主になるかもと思うと、持ち前の美人さも手伝っ
て神々しく見えた。いまは笑えないし喜べない。彼女も負傷し
ているようだが、自分と違って動けるようだ。
「きみ、さっき見かけた子だな、と思って。草むらに入るとこ
見たから……」

 少女にまじまじ見つめられ、史郎の声は先細る。この状況で
どうでもいいことだ、と反省した。
「あの……携帯、持ってる?」
「いいえ、持ってないです。お兄さんは……?」
「ズボンの後ろポケットに入ってるんだ。取ってもらっていい
? 無事ならいいんだけど……」
 彼女は携帯電話を持っていない。血まみれで穴にいた少女と、
携帯電話のふたつが自分の命綱だ。そして携帯電話は彼女の命
綱でもある。
 緊張で心臓が口から飛び出そうだった。少女が尻のあたりで
動いているのが、視野のはしに見える。触感が駄目になってい
るのか、なにも感じなかった。
 電話が無事なら、一刻もはやく病院にふたりとも行かなけれ
ば――
「……取れた!」
「ほんと」
 身を起こした少女が、視野にすい、と現れる。表情は曇って
いた。薄暗くなった穴の底、二つ折りタイプの携帯電話を開い
た彼女が、電光で照らされることはない。
「もしかしたら急に使えたりするかもしれないし、ときどきた

めしてみます。だから……」
 落胆は強烈なほどだったが、携帯電話をにぎった彼女が努め
て明るい声を出すのがわかった。
「う、うん。そうだね。なんか接触のアレで、急に使えたりす
るかもしれないしね!」
 少女に励まされ、空元気一色の史郎の声は途中で裏返った。
 三笠瑠輝るき、と名乗った少女は、近所に住む中学生だった。お
うむ返しに史郎も名乗った――穴に落ちた不運の男に、先客が
いるなんて驚きだ。
「瑠輝……ちゃん、このあたりに、ペットボトルのお茶落ちて
ない? 穴に落ちるまえに、買ったやつなんだけど。もしあっ
たら、持っててくれないかな」
 ちらりと脳裏に「死」の文字がよぎる。
 はい、と簡潔な返事をし、瑠輝は史郎の視界から消えた。ざ、
ざ、とあたりを歩く音がする。
 瑠輝の怪我が足を痛めた程度なのか、先に確認するべきだっ
たな、と彼女の足音が一周する間に史郎はため息をつく。
 彼女の怪我の状態も確かめずに、飲みものの探索を頼むのは
気遣いを欠いている。
 動いているが、瑠輝は血まみれだった。

 頭部に負傷しているのだろうか? 顔に血がついていたから、
首から上の怪我だろう。出血がない方が頭部の怪我は怖い、と
聞きかじったことがある――すぐ治療できないいま、怪我はち
いさいに越したことはない。
 それにしてもきれいな子だ、と感心していると、明るい声が
聞こえた。
「あったよ」
「よかったぁ」
 史郎の身体は相変わらず動かない――脊椎かなにかをやって
しまっているのか。
 見上げた亀裂は、夜に侵食されていた。穴のなかはすでに暗
い。陽が落ちるまえに飲みものが確保できてよかった、と自分
の思慮の浅さを叱咤したばかりの頭で思う。自分に時間がある
だろうか、といやな考えがそっと手をかけて来たので、史郎は
瑠輝に話しかけ、これを振り払った。
「瑠輝ちゃんは、怪我……どんな感じなの?」
「ちょっと痛いくらいで、そんな、たいしたことはないと思い
ます」
「吐き気なんかは? 頭打つと、そのときは大丈夫なようでも、
吐き気が後からしたら危ないって聞いたことあるよ。こんな状

態だけど、やわらかそうなところで横になった方がいいんじゃ
ない?」
 史郎の言葉に、瑠輝はぎこちない笑顔を見せた。
 真意ははかり損ねたが、史郎は笑顔を返す。
 彼女のまなざしが残像のように胸に残った――静かな瞳だ。
 夏とはいえ、穴の底は冷えた。
 熱帯夜になる、と今朝のニュースで聞いた。なんの冗談だっ
たんだ、と思うほど頬が冷えた。だがそれ以外の感覚がない。
この冷たさだけでも大切にした方がいいのだろう。
「瑠輝ちゃん、落ちたとき怖くなかった?」
 吐息と一緒に出た声は平坦だった。
「……よく、覚えてないです」
 彼女の言葉に史郎はほっとした。覚えていない方がいい種類
のできごとは、世のなかにいくつかあるものだ。
「後々トラウマになったり……夢見が悪くなったら困るから、
ちょっとでもリラックスできるといいんだけど……」
「そんなに、わたしの心配はしないでください。……ちょっと、
寒いですね」
 彼女の腕はむき出しだった。
 まっさらな美少女と進退窮まった環境にいれば、なにか胸と

きめく想像も普段だったらするかもしれないが――緊急時には、
居合わせた相手に恋愛感情を抱きやすいらしい――自分の命の
危機が実感できるいまは、せめて彼女だけでも、と願うばかり
だ。
「すこし休むね……」
 つぶやいて目を閉じる。瑠輝ちゃんも休みな、と続けたかっ
たが、無理だった。
 うわべだけのつもりだったが、史郎はたやすく入眠した。
 
 ●
 
 夢のなか、祖母が笑っていた。
 引越しまえの古い家、仏壇の向かいに立った祖母が浮かべる
のは、はんなりとした笑顔。
 実際はきついことをぽんぽんいった口元が、優しげにほころ
んでいる。
 ――ばあちゃん、やばい、携帯壊れちゃったよ。
 駆け寄ろうとするが、身体が進まない。走っても走っても息
は切れず、祖母は遠いままだ。
 ――朝になったら誰か通るかな。見つけてもらえないと、そ

っこうばあちゃんに会いに行くことになっちゃうよ。
 祖母は顔のまえで手を横に振る。
 まるであんたは死なない、と太鼓判をもらったようで嬉しく
なった。反面、祖母は死んだのだ、と希薄だった実感が、夢な
のにわいた。
 白木の棺で眠っていた祖母に似た死人は、まさしく祖母だっ
たのだ。
 ――叔父さんの夢枕に立って、俺のこと心配させてよ。救助
につながるかもしんないじゃん。
 史郎、と祖母が口を開いた――あんたね、誰もいないとこで
死ぬなんて、駄目だよ。
 独居死を迎えた老女の言葉は、夢のなかでも妙に重かった。
 駄目だからね。ばあちゃんみたいになっちゃ、ほんと駄目よ
――その声を最後に、史郎は目覚めた。
 暗く涼しい場所にいる。
 現実に直面し頭を占拠した暗澹たる重い感情は、いかんとも
しがたい。
 意識ははっきりしていた。起きられた、と安心した史郎の身
体は、やはり動かない。
 瑠輝はどうしているか。彼女は眠っているのだろうか、物音

はしない。
 自分が死んだ後、最初にアパートの部屋に入るのは誰だろう。
祖母の遺品整理のように、自分の片づけをするのは。叔母だろ
うか。自分の死後を考えてぞっとした。
「まいったな……」
「起きましたか?」
 ざ、ざ、ざざ、と歩く音。
「起こしたかな」
「いいえ、あんまり眠れなくて」
「そっか。時計……持ってる?」
「ごめんなさい。手ぶらだったんです」
 瑠輝はいまだ足を引きずっている。彼女は史郎の視界に腰を
下ろした。
 暗さに目が慣れると、瑠輝の表情もわかった。
 静かだった。
 ――誰もいないとこで死ぬなんて、駄目だよ。
 夢の声が耳によみがえる。
 祖母の言葉というより、自分の願望かもしれなかった。独居
死は怖い。誰にも悟られずひっそり死ぬなんて。すべてが自分
の死を無視して、滞りなく進む。

「瑠輝ちゃん、家のひと……探してないのかな」
 ふと、まず思いつくべき事柄を口にする。やはり落下直後で
頭が混乱していたのだろう。様々な取りこぼしがある。
 彼女の家族が警察に通報しているかも。発見してもらえれば、
芋づる式に助かる。瑠輝は黙ってうつむいた。事情のある家な
のか、突っこんで訊くのはためらわれたが、命がかかってはそ
うもいっていられない。
「探しに出てる様子は……ないっぽい?」
「……はい」
 空を見て何時ごろか、と空腹も感じない自分の身体を確認し
た。紺碧の空に星が瞬いている。
「バイト、辞めなければ誰か連絡くれてたかな……」
 痛みがないからだろうか、気持ちが穏やかでいるのはせめて
もの救いだ。
「バイトって、なにしてたんですか?」
「いろいろ。就職したら会社が潰れちゃってね、それからはず
っとバイトばっかりしてたなぁ」
「働くのって、どうですか?」
 どうですか、と心中で瑠輝の言葉をくり返した。引っかかる
響きの言葉だった。

「合わないひとと当たると、働くのきつくなるね。仕事そのも
のが辛くてたまらない、っていうのは、俺だけじゃなくて……
大抵のひとは、そうそう起こらないんじゃないかな」
 笑ってみたが、瑠輝は真摯な目を向けるのみだ。
「選り好みしなければ、仕事ってすぐ見つかりますか?」
「……まあ、それはそうだけど。興味あるの?」
 闇に慣れた目に、うなずくちいさな顔がなんだか強張って映
る。
「わたし、ひとり暮らしがしたいんです」
 息を殺すような声だった。
 親元にいる子ならば、たいてい自活に憧れを抱いているので
はないか。史郎は彼女が決意を吐き出すように、かたい声で話
す理由がわからなかった。
「保証人とか……敷金礼金とか、なしで暮らそうとしたら、ど
うしたらいいんでしょうか」
 家庭の事情か、と史郎は言葉を探した。
「住みこみの仕事もあるみたいだけど……学校の進路相談で話
してみた?」
 かぶりを振る瑠輝のおさげ髪が、大きく跳ねた。
「ご家族は?」

 やはりかぶりを振る。
「もしかして……家出、する気……だったり?」
 冗談めかした声は、空回りしてかえって空気を凍らせた。遠
くを見た瑠輝の横顔を、肯定しているのだととらえた。史郎は
黙る。
 ――いまも家出の最中だったら?
 そんな経験がないから、彼女の軽装が家出にふさわしいのか
わからない。草むらに分け入って穴に落ちる顛末も、家出にふ
さわしいのかわからない。
 ただ家出中の娘が、積極的に助けを呼んでくれるだろうか。
 怖い考えがじんわり広がる。
 身動きのできない史郎は、自分の見た目が恐ろしい様相だと
想像できた。
 血に弱い子だったら、泣き出したり近づいてくれなかったり
するかもしれない。
 彼女がそうでなくてよかった。
 死にかけの男が転がっていれば、外に向かって助けて、くら
い叫んでくれるだろう。だがそれは、結果として彼女が家に連
れ戻されることを意味する。
 家出少女はどう動くか。

 彼女も穴から出られずにいる。助けを呼ばなければ彼女だっ
て衰弱し、果てには餓死するはずだが――家出に失敗するなら、
と自暴自棄になったりしないだろうか。
 そもそも、ここはひとの通りは多いだろうか? 叫んで通り
すがりの人間に声は届くだろうか?
 悶々と考えていると、瑠輝が史郎の頬をなでた――頬にはま
だ感覚がある。
「お兄さん、家族は?」
 受け取りようによっては、いやな質問だった。
「……親戚は、一応いるよ。親は三年前に事故であっけなく逝
っちゃってね。ここのそばにばあちゃんが住んでたんだけど、
亡くなって遺品整理をしに来たんだ」
 両親が亡くなり、史郎は自活していたワンルームのアパート
を引き払った。そしてひとりで暮らしはじめた生家は、史郎に
は広かった。やがて慣れたが、それを祖母も経験したのだと思
うと、いまさらながら切ない。
「じゃあ、お兄さんがこんな目に遭ってるって知ってるひとは
――」
「瑠輝ちゃんだけ、だね」
「お悔やみ……申しあげます。大変でしたね」

 しっかりとした声だった。
 この子はおとなびているのか、と急に納得した。
 瑠輝のまなざしは老成している。違和感を覚えるほどに。彼
女が負うのは、思春期の少女を悩ませる手合いのものだろうか。
大なり小なり、誰でも思い煩いながらも目を背けられない問題
を抱える時期がある。だが瑠輝のような老成した瞳をした相手
は、史郎の周囲にいなかった。
 ――思い過ごしかもしれないし。
 史郎は上を見た。空は鮮やかな水色に変わってきている。
 暗い穴の底、頬がゆるむような瑞々しい色だった。
「今日も……暑くなるのかな」
 少女の声に、史郎は生返事した。
 暑さを感じるかな――口には出さなかった。
 瑠輝には迷惑だろうが、最悪ひとりで死なずにすむのだ。恐
らくこれが、史郎を安らかな気持ちにしている大きな要因だっ
た。
 とにかく、と史郎はくちびるを引き結ぶ。
 とにかく、悪いことは考えないようにしよう。無人島にいる
わけではないのだ。
 

 ●
 
 瑠輝は明るくなる穴の底で、ちらりと史郎を見る。
 横臥した彼は、はじめて見たときよりも具合が悪そうだ。い
まにも死んでしまいそうだ。
 どうしよう、と瑠輝は思う。くり返しくり返し、どうしよう、
と。
 かまうものか、とも思う。くり返しくり返し。かまうものか、
と。
 どうしよう――かまうものか。
 穴の底、瑠輝が気を張っている場所があった。
 史郎の死角になっている部分で、横穴が一本のびている。な
んの穴かは知らないが、昔から放置された場所だった。
 横穴の先に、瑠輝の父親が横たわっていた――父親は死んで
いる。
 瑠輝が殺した。
 目のまえに瀕死の男がいて、助けを呼べるのは自分だけ。瑠
輝の知る出口があることを、史郎が知る由もない。
 おもてからの出入り口は、彼からは一見わからなくなってい
る。

 穴の出入り口は至極簡素なフェンスでふさがれていて、それ
は破れていた。しげみに隠れているが、取り壊しを待つ廃屋の
一角にある。彼女はその廃屋のとなりに住む。身体のほそい彼
女だけが出入りできる、たぶんほかに知るもののない場所だ。

 あそこから出れば、すぐに救助を呼べる。
 呼べば瀕死の史郎とともに、とうに息をしなくなっている瑠
輝の父親が見つかる。
 どうしよう――史郎がこのままでは死ぬ。
 かまうものか――父親と一緒に、史郎も最初からいなかった
かのように、葬ればいい。
 瑠輝は乾いた血を指先でこすった。
 刺した場所の問題か、一度目の腹よりも二度目の胸は出血が
ひどかった。頭から浴びた血は気持ちが悪いが、史郎を残して
洗い流しに立つわけにはいかない。
 ポケットにしまった携帯電話が重かった。
 携帯電話は壊れていなかった。
 取り出すときサイドボタンに指が触れ、携帯電話は反応した。
サブディスプレイに時刻が点ったのを目にして、背筋が凍りつ
いた。

 思わず手で光を隠そうとすると、電池のふたにひびが入って
いるのがわかった。史郎が動けないのをこれ幸いと、ふたを取
るとそのまま電池をすばやく抜いた。とっさの自分の判断は、
思い起こすだけでも動悸が激しくなる。
 史郎に携帯電話を見せろ、といわれなかったのでほっとした。
その一方、信頼されている、と思うと苦しくなった。
 横にいる史郎の呼吸は浅い。
 一介の中学生の瑠輝でもわかる――このまま行けば彼は、不
運とも間抜けとも取れる死に方をする。
 瑠輝は疲れていた。
 めまぐるしい時間にさらされ、しびれるように身体が重い。
 父親を呼び出し、地上で腹を刺してから穴に突き落とした。
 血はほとんど飛ばず草は緑のままで、おかげで瑠輝は人目を
気にせず移動できた。用意していた着替えも無用の長物になっ
た。
 迂回して出入り口から穴に入ると、父親はひどい顔をして地
面でのたうっていた。
 無様だ、と思っただけだ。
 父親の胸に馬乗りになり、幾度も刺した。
 血が噴き出すのと同時に、父親の身体がびちびちと激しく動

き、瑠輝ははじき飛ばされた。足をひねったのはそのときだ。
父親はじきおとなしくなった。
 すべてが無音のなか行われた。瑠輝はその間まったく音を聞
いていなかった。聞こえなかった。
 スコップを持ってきて埋めよう。
 淡々と身体を動かした。瑠輝が立ち上がろうとしたとき、史
郎が落ちて来た。
 無音のなか、作業のように父親を殺した瑠輝は驚いた。
 史郎は音をともなって現れた。
 肉の叩きつけられる無残な音と、史郎が上げた苦しげなうめ
き声。一生忘れられない種類の音だ。
 瑠輝は膝を抱えた。
 埋めた人間が土に還るのに、どのくらい時間が必要かわから
ない。なんとしても逃げ切るのだ。父親の遺体を隠し、逃げる。
どれだけ時間がかかったとしても。
 どうあっても逃げる。
 だから、史郎は――
「……瑠輝、ちゃん?」
 静かな声に、瑠輝は顔を上げた。
「寝るなら、横になった方が……休まると思うよ、たぶん」

「……はい」
「すぐに誰かに見つけてもらえるとは限らないし……体力温存
しておきなよ」
 浮かんだ史郎の笑顔は、ぞっとするほど優しいものだった。
 史郎の視線が上を向いた。つられて目を向けた穴の先、外の
世界は朝へと移行している。
 ――あんなところから落ちて。
 父親は刺されてから突き落とされたのに、まだ息があった。
史郎はもはや虫の息だったが、一晩を生きて越えようとしてい
る。白く乾いた史郎の顔は、一刻もはやい救助を必要としてい
た。
 罪悪感が見えない手をのばす。
 それにつかまったらきっと、救助を呼びに外に駆けてしまう。
 父親殺害のときには、唾棄すべきものを排除した達成感が大
きかった。肩の荷が降りたとさえ思ったのだ。だが史郎は――
じわじわと瑠輝が殺そうとしている。
 瑠輝は立ち上がり、静かに奥に向かった。
 足が痛む。
 暗がりに、父親が目を開けたまま転がっていた。
 振り返り、史郎の視界に自分が入っていないことを確認した

何度も何度も、執拗に確かめる。
 史郎が落ちて来て、あわてて横穴に引っ張りこんだままにし
てあるため、それの胸には包丁が刺さったままだ。よけいな物
音を立てるのは避けよう。瑠輝は壁に背中を預けた。
 父親をまえにすると、迫っていた罪悪感が消えた。
 母親の再婚相手だった。
 結婚したとたんに、伴侶に暴力をふるうようになるのはよく
あるのか。母親が娘を置いて逃げ出すのはよくあるのか。残さ
れた娘が更なる虐待を受けるのはよくあるのか。
 夜陰に乗じて行われた虐待が、時間帯を問わず行われるよう
になって、あいつを殺そう、と瑠輝が決めたのは二月ほどまえ
のことだ。
 苦しめてやろうとかそういった感情はなかった。ただ自分に
害が及ばなくなればよかった。
 そのためには殺してしまわなければ、と破滅的な思考に飛び
ついたのは、きっと瑠輝が追いつめられていたからだ。
 追いつめたのはほかならぬ父親で、虐待が行われるたびに、
瑠輝は父親に生きながら殺されている、と感じていた。正気が
磨耗する感覚。あれを絶望と呼ぶのだ。
 家でもそうしていたように、うずくまり、身を強張らせたま

ま瑠輝は眠った。疲労を感じていた。どんどん重くなる。一方
的に増やされているのに、抗えずに受け取る荷物のようだった。
投げ出せないのはわかっていて、生きる限りこの荷物は重くな
る一方だ。わかっている。
 目が覚め、父親がはめている腕時計を確認した。
 昼近くなっていて、驚いた。案外長い時間眠っていた。
 動けない史郎は、上を通る人間に気づかず眠っているようだ。
もし通行人がいて、史郎に動物並みの鋭敏な感覚があれば、だ
が。
 差しこむ光を受けて、彼は静かに横たわる遺体に見える。目
前にある、悶死した父親の穏やかさのかけらもない遺骸と違い、
史郎は清潔に思えた。
 瑠輝は近づいた。
 夏の光は弱まることを知らず、史郎の顔を照らしている。彼
は場違いな笑顔を浮かべていた。
 棺をのぞいたときおさめられた遺体がこんな顔をしていたら、
そのひとの人生はさぞ満ち足りたものだろう、と胸を打つよう
な笑顔だ。
 だが史郎は息絶えたわけではない。
「くふふ」

 史郎は幸せそうな笑い声を漏らした。不明瞭な単語を二三つ
ぶやく。
 起こすのは忍びなかった。
 瑠輝はかなしくなる。
 この穴から史郎を出す気はなかった。
 願わくば、史郎が速やかに安らかに絶命しますように――手
を下したくなかった。
 
 二 生きるために
 
 静かな気持ちで目が覚めた。
 だが次の瞬間には、状況を思い出していた――どうせなら、
すこしは寝ぼけて目前のひどい現状から逃避させてくれればい
いものを。
 首は動いた。周囲をうかがおうとして、史郎は高みの青い空
に気づいた。あらためて、きれいだと感じた。周囲はひんやり
冷たい空気が満ちている。地下なら盛夏でも涼しいものだった。
 枝を広げた樹冠のシルエットが、空の青さを際立たせる。鮮
明さが目にしみるようだ。
 あちらではせみが鳴き叫んでいるだろうが、穴の底には届い

て来ない。ここで声を張り上げても、地上には届くまい。史郎
はすでに自分が祖母の待つ彼岸にいる気分になった。
「……起きましたか?」
「うん。瑠輝ちゃん、起きてた?」
 瑠輝の声に、自然と口角が上がった。
「さっき目が覚めて……」
「いま、何時なんだろうね。誰か通ったかどうか、わかる?」
 史郎の視野で瑠輝が首を振る。
 そっか、と出た声は、平常のままだった。落胆していない自
分が一番不思議である。
「瑠輝ちゃん、すこしずつ水分取っておきなね」
「あの……お兄さんは」
「俺はいいよ。その……お兄さんじゃなくて、名前で呼んでも
らってもいいかな」
 よそよそしい空気はいやだった。
 史郎は思う。
 もし――もし息絶えるなら、親しいものに看取られたい。
 確実に死が迫っている。
 心のなかの冷静な部分が、自覚して見据えろとうながす。
 ひょっとすると頭の打ち所が悪くて、恐怖感がわかないのだ

ろうか。行き詰まった感はあるが、うまく飲みこめない。もっ
と怖がって取り乱してもいいのだ。
 きれいな子に看取られるのはいいとして、問題は彼女がどう
なってしまうか、だ。授ける知恵もない。
「瑠輝ちゃん、落ち着いてるね」
 老成していると見受けられるが、瑠輝の落ち着きようはたい
したものである。
 史郎は目を合わせ無言で言葉をうながす瑠輝に、意識して微
笑んだ。うまく笑えているだろうか、心配になった。強張った
笑顔は、きっと彼女を不安にさせる。
「そうですか……?」
「うん。肝がすわってる感じ。びっくりして、感覚麻痺しちゃ
ったかな。……ここから出たら」
 口にしながら、史郎はなんて嘘くさい響きだ、と思った。
「まっさきに病院行こう。トラウマって、後々深刻なことにな
るみたいだから」
 専門的なことは、門外漢の史郎が口にするべきでなく、口に
しても説得力はない。
 上を見る。今日もよく晴れていた。
 おもしろくもない冗談みたいなこの状況になっていなかった

ら、だらだら遺品整理をし、適当に飲み食いし――ちらりと頭
をよぎる就職活動への、疎ましさのからむ焦燥にため息をつく。
日がかたむくまえには作業に飽き、捨てるかどうか迷う荷物が
たまる一方の居間にうんざりする。
 そうやって夏はだらだら消費されるはずだった。
「ええと、お兄さん、じゃなくて――」
 史郎は苦笑した。瑠輝は史郎が一度名乗ったきりの名を覚え
ていないのだ。
「田原史郎だよ。瑠輝ちゃんの呼びやすいように呼んでくれる
と、助かるんだけど」
「それじゃあ、田原さん? 史郎さん? それとも……史郎、
くん?」
「史郎くん、で行ってみようか」
 瑠輝がはにかんだ。
 表情が確認できる明るさのうちに、目に焼きつけておきたか
った。
 上空を見ても、揺れる木の枝と流れる雲があるばかり。瑞々
しい生命力だろうが、季節が移ろえば衰えるもの。瑠輝の笑顔
は違う。これからさらに長い時間をかけて広がり栄える、可能
性のかたまりだ。身動きできない自分も助かるなら御の字だが

せめて彼女だけでも――
 独善的な気持ちになっているのは、ひとえに身体が動かない
からだ。
 聞きかじった知識でも、首から下が動かないこの状況が、希
望の持てない深刻なものと知っている。
 音が分散してしまうのか、ひとが通っても――通った、と前
提してのことだが――史郎は目が覚めなかった。ふたりして通
行人の気づかない地下に閉じこめられ、頼みの綱の携帯電話は
壊れている。さらに少女の家族が、彼女を探しに出るのが期待
できないなら、これは絶望的といわないか。
 問題があろうが放任主義だろうが、持てども戻らない娘を親
が捜しに出るのに――どのくらいかかるのか。それまでふたり
の体力は持つのか。
 先に逝くのは、冷静に考えなくても自分だ。
 史郎は目を閉じる。
 死体と同居することになって、瑠輝の精神状態は大丈夫か。
 動けない――身体が動かないだけでなく、意識が朦朧とした
り、もっと最期を意識するような事態になれば、冷静にものは
考えられなくなる。意識が明瞭であれば、それもまた恐怖に駆
られて取り乱すだろう。

「史郎くん?」
 不安げな声に史郎は目を開ける。
 死んだとでも思ったのか、瑠輝が大きな目を見開いていた。
「ちょっと目を閉じただけ」
 いいつくろうのも妙な話だ。
「瑠輝ちゃんは? 疲れてない?」
「うん。起きたばかりだし……」
 瑠輝の顔色はあまりよくない。
 太陽光の真下なら、また違うだろうか。なにより疲労が濃く
うかがえる。
 明るい話題を探すが、やくたいもない駄洒落がよぎるばかり。
「……史郎くん」
 横目で見ると、瑠輝は空を――外を眺めていた。体育座りの
という方が、史郎には怖い。急激に体調が悪くなり、昏倒する、
瑠輝を思ってぞっとした。自分に助けは呼べないのだから。
「おうちのひとが……死んじゃったとき、悲しかった?」
 平坦な声は、史郎に言葉を探させた。
「悲しい、って思うより――家に誰もいないのが、変な気分だ
ったよ」
 ひとりの家が本当に静かなものだ、と史郎が知ったのは、両

親が事故で他界した後だ。
「交通事故でふたりともあっけなく死んでさ。急すぎて、葬式
終わるまでばたばたして、ひとりにならなかったんだ。誰かし
らいたし。死に顔もきれいだったから、火葬するときなんかほ
んとに燃やして大丈夫かな、って思ったもんだし。後で生き返
って、怒るんじゃないか、って」
 静けさが圧力を持つことも、生家でひとりになって知った。
 人間はそこにいるだけでも騒々しい生きもので、音を絶えず
立て続けている。呼吸音やわずかな身じろぎ、それにともなう
衣擦れ。声をかけるように、ひとの視線はものをいう。母の視
線は煩わしいほど強かった。部屋にこもっても、階下の台所で
立ち歩く母の気配は、壁や床を伝って感じられたものだ。
「悲しいって思うより、残念……かな」
 突然の不在は現実感をともなわなかった。両親の死にため息
は落ちたが、涙は落ちていない。
 いつか自覚して、泣く日が来るのか。悲しくて、涙が音を立
てて落ちる日が来るのか。そう思うことがあったが、そのまえ
に自分が両親のもとに出向くようになりそうだ。
「もっと生きててくれたら――いろいろ、あったと思うんだ。
もめごともあるだろうけど、そういうのもふくめて、いろいろ

「喧嘩するのは……いやじゃない?」
「そっか、喧嘩かぁ。喧嘩もできないのは、寂しいかもよ?」
 史郎はいったことが照れくさくて笑ったが、瑠輝は笑わなか
った。
 微妙に父とは会話がずれていた。一緒にいても間が空くこと
が多かった。気づまりでないのが救いだったが。
 母はひとの話をまったく聞かず、行動が読めないひとだった。
気分の上下が激しかった。
 めずらしくもない、大なり小なりどこの家庭もそんなもの、
と史郎は思うようにしていた。
 不在は史郎にしみこまない。いつも目先の瑣末なことに気を
取られ、おろそかになっていた。
 多分考えたくなかったのだろう、と史郎はいまさらため息を
つく。
 せめてもの救いは、単独事故だったため加害者も被害者もな
いこと――しかし家族を失うのに救いなどない。
 瑠輝の家族は娘の不在をどうとらえているのか。気にかかっ
たが、彼女に家庭の事情を尋ねるには見えない壁は高かった。

「史郎くんには……なりたいものとか、将来の夢ってある?」

 最近とんと聞かない言葉で、史郎は少女がなにを尋ねている
か、即座には理解できなかった。
 将来の夢――十代を終えたあたりから、夢などという希望は
口にしていない。
 まっとうな職についてあぶれずにすむといいな、と口から出
そうになった。さすがに年齢の差か、瑠輝は真剣な表情を見せ
ている。
 彼女はまだ将来の夢を持てる年齢か――保育園のころ、史郎
は大きくなったら消防のはしご車になりたかった。小学校では
野球選手で、中学校では獣医だった。将来の夢がなくなったの
は、高校に入学してからだ。
「瑠輝ちゃんは?」
 質問に質問で返すのは卑怯だが、苦し紛れに史郎はそう返し
た。
 言葉を待ったが、瑠輝は黙ったきりだ。体育座りで身体を守
るように抱えこみ、うつむいた顔は影になって見えない。
 失敗したかな、と後悔したが、彼女から尋ねたことで、史郎
が謝るのも違う。
 とりあえず上空を見た。
 時間の感覚がつかめない。

 空は青々としている。
 夏の日は長く、昼か夕方かもわからない。横臥し救助を欲す
る身の上だ、時間が不明なのは困る。わかるのは、ひとが通る
気配がまったくしていない、感じられないということ。鈍感な
のではなく、音が底まで届かないなら、史郎と瑠輝はとことん
追いつめられた状況ということになる。
 痛みどころか空腹感もない。実はすでに死んでいたりして、
と心中でつぶやく。
 いつだったか見た、テレビの怪談番組を思い出す。
 事故などで本人に死の自覚がないままだと、魂は死んだ土地
にずっととどまり続けることになる、といっていた。
 きれいな空を見て、ゆったり横たわって、たいして恐怖を感
じない――これはこれで、死んでいても問題がないのではない
か。無職だし、と笑いそうになる。
 身じろぎせず、膝を抱えたままじっとしている瑠輝を目のは
じで確認した。
 もし自分がすでに死んでいるなら、横にいる彼女はいったい
なんだろう。ひとりでは寂しい、と史郎が描く幻覚か。
 たまに耳にする、「本当の自分」とか「本当にやりたいこと
を見つける」とか、そういったことを考えた経験が史郎にはな

い。
 順風満帆な人生だったからではなく、アルバイトをし、家で
はそれなりに家事をこなし、時間を見つけては愚痴だか激励だ
かわからない連絡をよこす叔母の相手をする。それだけで史郎
は手一杯だった。自身の行いを疑う器用さは、史郎にはなかっ
た。
 実直といえば聞こえはいいが、将来の夢を訊かれて返答に窮
した心地の悪さ。生粋の愚かものなら迷いもしないだろうが、
残念なことに不器用でも周囲を見まわす眼はついていた。
 
(※ 本編に続く)









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