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『水に咲く花』(日野裕太郎・ハルノブ)

【ファンタジー中編】
湖の女神アラリ・ノの病におかされると水の住人となってしまう。
僕は水の住人となってしまった幼馴染に会いにアラリ・ノの湖に行く。

祈祷師とふたりの旅は、コリンを殺した僕の罪を償うための旅でもあった。


文庫 約42ページ(1ページ 39字詰め 18行)

羽は広がり、次第に姿を変える。
肩胛骨を芯に、産毛に似るという羽は菌糸のように根づくのだ。羽はかたちを変え、やがて大輪の薔薇が咲くことになる。身体中に。全身の皮膚という皮膚に。
薔薇は広がり──全身を埋め尽くすと、今度は鱗に変わる。
変容だ。
患者は水の住人になるのだ。彼らは遠く離れた塩の湖に住む資格を得るのである。
彼らは陸ではうまく呼吸ができなくなっていく。あえぎ喘鳴をくり返すころ、脇腹に亀裂が生じる。亀裂はえらになり、口腔と肺での呼吸機能はすみやかに失われる。彼らは水中でのみ呼吸が可能になり、人語が曖昧になるのだ。
肺が機能を失い、声帯が瞬く間にも衰退する。
発音は聞き取りづらく、語るものは言語とはほど遠いものになる。旋律に似て、陸の生きものには鼻歌に聞こえるようになるという。
塩水で暮らすものとなりながら、陸を恋慕って彼らは浅い岸辺を往復するそうだ。その場から離れ難く、延々と波打ち際にとどまろうとする──陸に可能な限り近い場所を漂い、彼らは歌い続けるとも聞く。
僕はコリンを殺したら、ノイノイに会いに湖に行く──その夢想は、何故だかとてもやさしかった。

【ブログや掲示板で取り上げていただきました】

» 日野裕太郎『水に咲く花』感想:Yuya Sakurai Official Blog
男は多分自分で自分を断罪する。気付けなかった自分を。許される日は、来るのだろうか。

【サンプル】

 ノイノイの羽
 
 ノイノイの背には羽があり、そのため彼女は村を追われるこ
とになった。
 
 
 僕の背には羽がなく、そのためノイノイのいなくなったちい
さな家に火を放った。
 
 ●
 
 ちいさな家のちいさなかまど。
 ノイノイのつくるシチューはいつも味が薄いのだと、彼女の
家族がぼやいていた。
 ちいさな家のちいさなひさし。
 ノイノイのちいさな肩は、十分ひさしのつくる影で涼を取る
ことができた。
 ちいさな家のちいさなベッド。
 僕がそこで身を休めることはついぞなく、ノイノイが誘った
のは、彼女の従兄弟の優男やさおとこ──そのコリンが、彼女に羽がある

ことを村の衆に報告した。
 それは義務だ。
 裏切りではない。
 だが彼女の心を切り裂いただろうことは、僕にすれば想像に
易かった。
 
 ノイノイの背中、その肩胛骨けんこうこつに現れた対の羽は、甘いかおり
がしただろう。
 
 
 僕はコリンを殺そうと思っている。
 
 ●
 
 羽は広がり、次第に姿を変える。
 肩胛骨を芯に、産毛に似るという羽は菌糸きんしのように根づくの
だ。羽はかたちを変え、やがて大輪の薔薇が咲くことになる。
身体中に。全身の皮膚という皮膚に。
 薔薇は広がり──全身を埋め尽くすと、今度は鱗に変わる。
 変容だ。

 患者は水の住人になるのだ。彼らは遠く離れた塩の湖に住む
資格を得るのである。
 彼らは陸ではうまく呼吸ができなくなっていく。あえぎ喘鳴ぜいめい
をくり返すころ、脇腹に亀裂が生じる。亀裂はえらになり、口
腔と肺での呼吸機能はすみやかに失われる。彼らは水中でのみ
呼吸が可能になり、人語が曖昧になるのだ。
 肺が機能を失い、声帯が瞬く間にも衰退する。
 発音は聞き取りづらく、語るものは言語とはほど遠いものに
なる。旋律に似て、陸の生きものには鼻歌に聞こえるようにな
るという。
 塩水で暮らすものとなりながら、陸を恋慕って彼らは浅い岸
辺を往復するそうだ。その場から離れ難く、延々えんえんと波打ち際に
とどまろうとする──陸に可能な限り近い場所を漂い、彼らは
歌い続けるとも聞く。
 僕はコリンを殺したら、ノイノイに会いに湖に行く──その
夢想は、何故だかとてもやさしかった。
 水の住人となった彼らの顔を見てはならない、とされていた。
すなわち会ってはならないと。何故なのか、理由は耳に入らな
かった。ようは噂の域を出ないものなのだ。
 憶測推測、忌憚きたんは邪推を呼び、くらい楽しみとなって村に蔓延

している。
 真実との差異を、湖に向かう僕は知ることになるだろう。蔓
延した邪推が正しければ、僕は村に戻れない。
 命を奪われるといわれているからだ。
 陸を恋う彼らの呪詛じゅそによって、会いに行ったものは岸で塩の
像になるという。
 僕の知る限り、勝手に彼らに会いに行った人間はいない。す
べて噂だ。
 僕が生き証人になるのだと思うと、愉快になった。
 
 
 ノイノイの病は、類を見ないほど進行がはやかったという。
 水の住人は歳を取るのが遅くなる。だから彼女は童顔だった
のだろう、と駿馬しゅんめに荷を積みながら、村の祈祷師がおもしろく
もなさそうに笑った。
 袖やえりから薔薇の文様がのぞくようになって、彼らの発病
は発覚する。
 ノイノイはたまたま恋人に背を見られたから、羽の段階で見
つかったのだ。
 病は伝染しない。

 しかし恋人のコリンは孤立していた。
 彼は病に触れたとうとまれている。ノイノイと交わった彼もま
た、病に汚染されているのと同様に扱われた。病を得れば、も
う村のものではない。陸の眷属けんぞくではない。
 村の女衆はコリンに手厳しかった。
 憐憫れんびんを隠そうとしない男衆は、恋人を失ったコリンの扱いに
戸惑って距離を置いた。対して女衆は、徹底的にコリンを蚊帳かや
の外に押し出そうとする。
 罹患りかんしたものは一目でわかるようになる。コリンの件はただ
のいいがかりであり、いずれ収束する。唯一病を熟知する祈祷
師は、そういって女衆に取り合おうとしない。
 祈祷師と僕が水辺に向かうことなったとき、何故コリンが行
かないのかと女衆は色めき立った──僕たちが水辺へ向かうの
は、ノイノイの葬儀を行うためである。
 すでに彼女は水の住人で、塩の湖に放たれて日が経っていた。
自力で陸上を動けるうちに、彼女は湖におもむいたのである。
 僕たちと彼女では、もう見目形みめかたちが違いすぎているらしい。
 もうノイノイは村に──陸には戻らない。
 戻れない。
 女衆はコリンに葬儀を行わせろ、と目をつり上げた。それが

男としての責だと。僕に祈祷師の供を辞退し、コリンを推せと
詰め寄る。僕は拒んだ。祈祷師も僕の肩を持った──ただでさ
えつらい状況、それを葬儀の旅までさせたら、コリンはなおさ
らつらくなる。女衆の狙いはそこだが、祈祷師がにらむと女た
ちは引き下がった。
 唐突に、僕はノイノイの家に火を放ったことを思い出した。
あれはつらかった。ふとコリンに親近感を持つ。近しく思った
後、恋人の暮らした痕跡を灰にした僕を憎んでいまいか、尋ね
たい衝動を覚える。
 一度ついた火は、ちいさな家がそのたたずまいを失うまで燃
え続けた。
 黒煙と鼻につくひどいにおい。遠巻きに見守る人々の沈黙。
沈黙のなか雄弁に語られた、彼らの好奇と嫌悪。
 病を得た人間の家は燃やされるのだ。ノイノイの家族は、お
なじ敷地に建てていた住まいを引き払った。形見分けは行われ
ない。すべてを灰にし、なかったことにする。ノイノイはいな
かったことになる。忘却のための儀式だ。
 ノイノイの丹精こめたカーテンや窓辺の花が、あのときすべ
て焼け落ちた。
 僕は火を放つことで、自分のなかにあるノイノイへの恋慕れんぼ

殺したかった。それはかなわずにいる。いまだ彼女の面影は胸
にあり、恋しくてたまらない。
 彼女の体温を、うなじのかおりを、吐息を知るコリンがねた
しい。
 先達せんだって感じた親近感がひるがえり、今度は憎悪が増長する。
憎しみは僕とコリンとの差を、まざまざとつきつけた。
 残念ながら僕が従兄弟だったとしても、彼女と親密になれた
とは思えない。それは優男のせいではなかった。なのに僕は心
の奥底からささやく、彼を許すまじという悋気りんきの声を聞いてい
た。
 ノイノイの葬儀を執り行うための旅に、僕が祈祷師と湖に赴
くことになったのは──名乗りを上げたためでもあるが、なに
よりノイノイと縁遠いと判断されたからだ。
 昔恋人が水の住人になった男がいて、彼は葬儀に赴いた岸で
溺れ死んだ。鱗におおわれた恋人の手で、塩の湖に引きずりこ
まれたのだ。
 女衆はコリンもそうなればいいという。そうしてこそ、村か
らノイノイの痕跡をすべて消せるのだと。
 実際は以前女衆のひとりがコリンに恋慕し、すげなく袖にさ
れていたから起こった憎悪だった。腹いせだ。自分をふった男

に、断罪を下すつもりなのだ。それがなんという罪状か、僕は
知らない。
 その女は昨夜、僕にしなだれかかった。コリンを連れて行っ
てやれ、と目元を赤くした。女の腕が僕の胸にそえられたが、
僕は祈祷師に頼むよう勧めた。密着した女の乳房は温かかった。
僕には決定権はない。なにもない。そう告げると、気を悪くし
た様子の女は暴言を吐いて出て行った。
 女の体臭が部屋に残っていた。僕は欲情していたが、ノイノ
イの顔を思い出すとそれもなえた。
 もうノイノイはいないのだ。
 そもそも僕とノイノイはただの友人だ。その他大勢のうちの
ひとり。昔から知るおさななじみがいなくなり、胸は痛めても、
それ以上であってはならない。表向き、僕はその態度を貫いた。
誰にも気取られまいとした。これまで誰にも恋慕を打ち明けた
ことはなかった。
 ノイノイの両親や兄弟は、村の外れに移って静かに暮らして
いる。このまま静かに日が過ぎ、彼らにとってノイノイが過去
になるよう僕は祈る。しかし自分の胸にある恋慕がそうなって
しまうとしたら──我がことながら許せない。
「行こうか」

 村の祈祷師は駿馬にまたがった。僕もそれにならう。栗毛の
馬のいななきは力強い。励まされるようないななきに、かなら
ず湖に行くのだとあらためて思った。
 病んだノイノイの湖までの旅に同伴したのは、横にいる祈祷
師である。
 自ら水中に身を投じたノイノイは、すでに水の民になってい
た、と短く彼は語った。
「コリンはどうした。てっきり見送りにでも来ると思ったが」
「さあ。女たちに……これ以上、いやがらせをされなければい
いんですが」
「されるだろうよ」
 馬を動かし、僕たちはまだ夜も明けきっていない村を後にし
た。
 
 ──コリンが女衆に迫害されることは、もうない。
 家を出る前に、僕はコリンを殺していた。
 湖への使者になると決まった日、人目を避けながら僕はコリ
ンに会っていた──ノイノイへのことづてがあれば預かろう、
と申し出たのだ。
 だから彼は何度か僕の家にやって来ていた。

 すでに彼は、女衆のいやがらせを受けていた。巻き添えはご
めんだ、と先にふくめてあった。だから彼は慎重に動き、人目
を忍んだ。
 もし見られたとしても、僕が湖への使者だと村中に知れてい
る。どうとでもいいわけできた。あれは僕の陰湿さがかたちと
なった言葉だった。おまえはノイノイを失い、ほかの女にも避
けてられている。孤独なのだ──その意思表示のつもりだった
が、コリンは生来のきまじめさから律儀に謝罪と感謝をあらわ
し、僕の言葉にいちいちうなずいていた。
 あのときの僕は、機を逃し毒気が抜かれていた。
 コリンを殺さずに村を後にすることになるのだろうな、と予
見していたものだった。
 
 
 昨夜、まだ日が落ちないうちに僕の家を訪れたコリンは、絹
を一反預けようとした。
 婚礼に使われる意匠いしょうが、鮮やかな絹糸で刺繍されていた。
 目の前が真っ赤に燃え上がる。嫉妬だ。
 その反物は短時間で用意できるものではなかった。
 彼とノイノイの間では、以前から婚約が取り交わされていた

のだ。添い遂げるために準備をしていた。僕の耳に入らず、誰
も噂にせず、恋人たちはふたりでそっと準備をしていた。
 反物を僕は拒んだ。受け取りたくなかった。ひどく僕は動揺
し、コリンに気取られまい、と必死になっていた。
 水の民に衣類は必要ないと聞く、かえってこれは彼女に酷だ
と告げると、彼は頬を張られたような顔をした。
 それもまた僕を揺さぶる。
 動揺で声が震えないよう、僕は注意をはらった。
 翌朝はやくに村を出るから、今夜僕は眠らない──彼女が好
きだった食べものでも持って来たらどうだろう、水の民でも食
事はするだろうから。
 提案にコリンはうなずいた。ノイノイはミートパイが好きだ
ったそうだ。それも僕は知らなかった。動揺しすぎて、僕は笑
い出しそうになった。
 ではそれの焼き立てでも持って来ればいい。早駆けの馬で行
く予定だ。うまく行けば、パイが乾く前に届けられる。
 僕の申し出にしたがって、コリンはまだ甘いかおりのパイを
手に、真っ暗な深夜の道をやって来た。
 日のあるうちに現れたのは、絹を携えたときの一度きりだ。
あのときの急いた様子の彼が、なにを思って走ったのか尋ねれ

ばよかったかもしれない。
 僕の後悔はそれだけだ。
 誰にも見られずやって来ただろう彼を見送るふりをして、僕
は背中から刺した。
 死体は庭の涸れ井戸に放りこんだ。大きな音がした。駆けつ
けた隣人にとがめられるのを、僕はしばらく待っていた。だが
誰もやって来ない。井戸のかたわら、僕はコリンが井戸を這い
上がって来る姿を想像した。それをあらためて刺し、突き落と
す。しかしそんなことは起こらなかった。
 
 僕は祈祷師と村を出た。
 祈祷師はともかく、僕は戻らない。塩からいというノイノイ
のいる湖で、僕は自分の人生を終える気でいた。駆ける馬の足
ははやかった。すばらしい。草原を越える馬は放たれた矢のよ
うだ。
 老いた祈祷師の横顔を見ながら、僕は馬が急くよう拍車をか
ける。
「道も知らんくせに、何故そんなに急ぐ」
 横ならびになった祈祷師は不満げである。
「コリンから、パイを預かっています。できるだけはやく届け

てやりたい」
 本心だ。ノイノイの好きな食べものなのだ、きっと喜ぶだろ
う。
「水のものは、なにも食べないぞ」
「そうなんですか」
 僕は驚いた。彼は不憫そうな目をしながら、またがった馬の
速度を落とす。
「では、ノイノイにコリンが持たせてくれたと、それだけは伝
えられますか」
「会話はできないかもしれないぞ。それでもよければ」
 そんなにも変容するのか。僕は重ねて驚き、馬の足をゆるめ
させた。
 
 
 すこしはやかったが、パイで昼食にした。
 パイはうまかった。甘く、芳醇ほうじゅんで重い肉を噛む。コリンが焼
いたのか、彼の母が焼いたのか気になった。祈祷師はパイを絶
賛し、老齢に差しかかっているとは思えない健啖けんたんぶりを発揮し
た。
 満腹になった僕たちは、馬を引いて歩き出した。

 僕は現在の場所が、道行きのどの位置に当たるのか知らない。
塩の湖は平原の先にある。それしか知らなかった。正確な場所
は地図にも記されず、祈祷師とわずかな村の重鎮だけが知る─
─おそらく、よその村でもおなじだろう。
 尋ねると、祈祷師はあくびをかみ殺してから肩をすくめた。
「半分行かないくらいだ。そう焦るな。たまには村を出るのも、
息抜きになっていいだろう」
 村を出るのは、市場に出るときくらいのものだ。僕は市場へ
の道しか外を知らない。村人のなかには、近隣の村とつき合い
のあるものもいる。隣国で暮らしたいと願うものもいる。暮ら
している村を嫌うものもいる。
 僕は村の外に興味がなかった。
 村の外にはノイノイがいないからだ。彼女の気持ちが僕に向
いているかどうかは、別問題だった。僕はノイノイが好きだ。
彼女が僕を好きになっていたら、僕の恋慕はべつのものに変化
しただろうか。彼女の視線が絶えず僕を追うようになっていた
ら、その環境に変化を求めただろうか。僕はノイノイ自身を好
いていた。愛していた。彼女が水の住人になったいまは、この
世が終わったのと同義だ。彼女の住む水に沈みたい。
「西でな、新しい市を立てようって話がある。働き手の男衆を

募ってるよ」
 草を踏むと、かぐわしいかおりが鼻腔をくすぐった。僕は自
然とうつむいていた顔を上げる。
「西ですか」
「西だ」
 祈祷師は村の内外の情報に通じる。どんな用があるのか、彼
は頻繁に外出していた。精霊の声を求めてだとも、外に情人じょうじん
いるとも聞く。
「昔戦場になったあたり、わかるか? ずっと涸れていたが、
水脈が見つかったらしい。あちらは市が立たないから、近隣の
ものは歓迎してるそうだ」
「初耳です」
「ああ、まだ村で話してない」
「話してもよかったんですか?」
「どっちにせよ、そろそろ話そうと思っていたところだ」
「なんで、僕に」
「妻帯者に遠出は無理だろう。細君に恨まれるのはごめんだよ。
おまえさんはまだ独り身だ、決まった相手がいるならべつだが、
どうだ?」
 いい話だろう──祈祷師の目は輝いていた。応とも否ともこ

たえにくく、興味がないともいいにくい。
「ほんとうに、市が立つんでしょうか」
「立たせるんだよ。やるんだ」
 古戦場のあたりは、亡霊の産出地だ。行けばかならず、過去
生命を落とした兵士のさまよう魂を見られるという。斬首され
た王が、失った首を求めさまよう姿だとも。立ち寄ったものの
談では、ひどく荒れた土地だそうだ。井戸が涸れてひさしく、
ひとが住める場所ではない。
 そこに水脈が見つかったというのが驚きだった。
 井戸を掘るのは難事だ。一朝一夕でできることではない。な
にを思って水脈を求めたのか。求め続けたのか。
 僕は夜半に涸れ井戸に落とした、コリンの重さを思い起こす。
人間ひとり分の重さを背負った腕も身体も、とくに疲れを感じ
ていない。
 市場の建立こんりゅうといえば聞こえはいいが、ようは開拓だ。
 まず土地にひとが住めなければ話にならない。物流のために
は、商人たちに話をつけなければならない。現在動いている市
場との連携も必要になる。
 いまは名乗りを上げれば、誰でも歓迎される。腕力が必要な
時期だ。ずっと水脈のなかった土地は、開拓するのにどれだけ

かかるだろう。報われるだろうか。
 なにもかもを一からつくる。周辺の村々から援助はあるだろ
うが、借りが多くなるのはいただけない。長い目で見るなら、
体力のあるものだけでは駄目だ。人柄も必要だ。その上、野心
も。僕では無理だ。
「考えておいてくれ。村に戻ったら、若い衆に話してくれてか
まわない」
 僕はうなずいておいた。
 腹がこなれた僕たちは、馬にまたがった。
 あっという間だ、といって祈祷師は馬を走らせる。
 
 アラリ・ノの湖へ
 
 二日、馬は健康な足で駆けた。
 正確な距離を口にしなかった祈祷師の考えは、そのころには
理解できた──まっすぐ目的地に向かう気がないのだ。
 東に延々進んだと思えば、ゆっくり弧を描いて元の西の方角
に戻っていく。
 その意図を尋ねるか迷う僕を尻目に、祈祷師は近隣の国の話
を聞かせてくれた。

 鉄を算出する国で内乱が頻発していること、飛び火し国営の
果樹園で生計を立てる小国が占領されたこと、上等な瑪瑙めのうが出
る一帯の地面が突如陥没したこと──暗い話ばかりだと思うと、
今度は話の向きを変える──奴隷だった青年が幼少に誘拐され
た貴族の嫡男ちゃくなんだとわかったこと、政略結婚のはずが相思相愛に
なった王族のこと、病みついた母の快癒かいゆを祈った娘が神の声を
聞いたこと、その母がけろりと全快したこと。
 取り留めがなかったが、延々進むだけの行程で話題が尽きな
いのはありがたく、賞賛すべきことだった。村での祈祷師は寡
黙だったため、僕はただただ驚いていた。
 馬は疲れを知らずに走っている。
 距離がのび馬の足を心配したが、取り越し苦労に過ぎなかっ
た。馬の目は疾走する快感にうっとりし、汗が陽の光に反射す
る。
 やや先を行く祈祷師の馬は、先ほどからじっくりと進路を南
に変えていた。広い平原を旋回するように進む。
 さらに二日走り、馬は疲れを知らないが──僕は飽いていた。
「訊いてもいいですか」
「ああ」
「なにか意味が?」

「ああ」
 なにを、と祈祷師は訊き返さず、僕の方を見てにやりと笑っ
た。くそじじい、と罵りたくなるような顔だ。
「まっすぐ行くわけには行かないんだ。進む順路がある」
「決まりごとですか」
「ノイノイを送り出すためだ。我慢してくれ」
「我慢するほどではないです。その……順路のこと、訊いても
?」
「順路は道だ。水辺に行くためにはそこを通らなければ無理だ」
「はあ」
「なあ、なんで地図に湖が載っていないと思う? 誰も行こう
としないかわかるか?」
「いえ……わからないです」
 やはりくそじじいの顔で、祈祷師はほくそ笑んで僕を一瞥し
た。
「知らないからだよ。湖の場所が知られていたら、市場の帰り
に若い衆が行こうとしないわけがないだろう? おまえさんは
誰かが湖に行ってきた、なんて話を聞いたことがあるか?」
 僕は首を振る。
 ノイノイの前に病を得たものは、僕の村では三人だ。

 壮年の男が患い、よそから嫁いで来て未亡人になった女が患
い、死にゆくばかりの老婆が患った。そしてノイノイ。僕が生
まれて以来の二十余年で四人である。数はさほど多くないと思
う。
 僕のように、そのつど葬儀の旅につきそうものがあるはずだ
が──確かに、湖の位置について耳にしたことはなかった。湖
にまつわる事柄は、意識に引っかかってもすべて忌憚だからだ、
と勝手にけりをつけていた。おそらく、僕以外のものもそうだ
ろう。
「正しい道がある」
 祈祷師の視線の先を見るが、僕には変哲のない草原しか確認
できない。
「道はいつもおなじとは限らない。前はほとんど一本道だった。
だから……ノイノイを連れまわさないで済んだ」
 僕は目を凝らす。
「その前もそうだ。山をぐるっと迂回することにはなったが、
二日もかからずに湖が見えるところまで進めた。今回みたいな
のは、はじめてだな」
 そして祈祷師は舌打ちをした。僕の目にやはり道は見えない。
「正しい道を進まなければ、湖にはたどりつけない」

「それは」
 彼が世迷い言よまいごとをいっていると思った。祈祷師がこちらを一瞥
する目は鋭い。
「湖は、道を違えれば遠くにいってしまう。道を探すところか
らやり直しだ」
「いまは……湖まで、遠い?」
「そういうことだ」
 どれだけ目を凝らしても、道は見えない。何度も瞬く僕は祈
祷師の笑う声を聞いた。
「道が見えるから、俺は祈祷師なんだよ。見えないから、おま
えさんは祈祷師じゃない。そら、次は森に入るぞ」
 ずっと先に、こんもりとした森が見える。馬が駆けるには適
していない。
 だがそこを進まなければ、湖にはたどりつけないのだ。
 
 
 誰からも、湖の名を聞いたことはなかった。
 それも忌憚ゆえと思っていた。忌まわしいものにふれずに済
むなら、それに越したことはない。しめやかにささやかれた噂
の類は、忌憚を避けることの反動だろうと僕は考えていた──

ささやかれる内容には、一片たりとも確証のあるものはなかっ
た。
「名前か、そうだな、聞いたことはないな」
「そうなんですか」
 陽は落ちてひさしい。野営で手持ち無沙汰になり、僕は湖の
名を尋ねたのだ。だが祈祷師はあっさり首を振った。手にした
枝を火に投じ、
「あれは神の領域だ。勝手に名をつけるなど不遜ふそんだよ。まあ、
仲間内じゃたまに、アラリ・ノのお膝元なんて呼んだりもする
がな」
「アラリ・ノ?」
「女神だよ」
 聞いたことがなかった。僕は黙り、祈祷師は火を見つめる。
「昔はな、誰でも湖に行けたらしい。だが元々が女神の持ちも
ので、いつしか道が閉ざされた」
「それが……祈祷師の間での?」
口伝くでんだ。聞きたいか? うんざりするほど長いぞ。しかも名
も失われた神だ」
「失われた神」
 それは僕にとって、存在しないも同然だ。

「そう。だが、いる」
「いますか」
「いるさ」
「名が失われてるのに?」
「それを知っているから、俺は祈祷師なんだ」
「ほかに、誰も知らなくても」
「そんなもんだ。アラリ・ノだけじゃない。たくさんの神々が
名前を失ったり、変わったりしている。だがいるんだ。あの子
が村から消えて、家やら品やらを燃やして、誰も名前も口にし
なくなっても、ノイノイがいたって事実がなくなるわけじゃな
い」
 薪がぜた。僕は目をそらし、彼がそうしているように火を
見つめる。
「アラリ・ノは人間がお嫌いだ。それでもなかには、女神のお
気に召すものがいる。そうすると湖に呼ぶために、女神が姿を
変えてしまう。ノイノイが患ったのも、アラリ・ノがお気に召
されたからだ。アラリ・ノは死や病気を振りまきなさる。手元
に置きたい人間に、女神は病を植えつけるんだよ」
「その女神は……湖から出て来ないんですか」
「根っから水のものなんだろうな。魚は森を散歩しないだろう

?」
「女神は湖から離れたところにいる人間を、どうやって見つけ
るんですか? ノイノイをどうやって」
「そこが女神たる所以ゆえんだろうよ」
 祈祷師は肩をすくめる。
「女神が見つけ、つばをつけた相手は湖に行かざるを得なくな
るってことですか」
「つばつけか」
 祈祷師ははじかれたように笑った。つばつけつばつけ、とく
り返し、彼はしばらく笑っていた。
「湖でな、どれだけ祈ったり探ったりしても──女神はこたえ
てくださらない」
 僕は祈祷師の、急に平坦になった頬をながめた。
「ずっと、そういう……女神とかを信じて?」
 尋ねる言葉を口にしながら、僕は愚問だと思った。彼が気分
を害するか心配になるが、彼はなんともないように首を振る。

「陽がのぼれば朝になると知ってるように、俺はずっとそうい
うものがそこらじゅうにいるのを知っていた。そんなもんだ。
知っているから、この職を選んだ」

「迷いませんでしたか」
「迷わなかったが、反対された。うちは粉ひきの家で、女のき
ょうだいしかいなかったからな。俺が祈祷師になったら、跡継
ぎで問題が起きかねない。まあ、弟がすぐ生まれて解決した」

 ふくむもののない声に、僕はひとりほっとする。一方彼に肉
親がいると知って驚いていた。そんな当たり前のことも、彼─
─祈祷師にまつわることはひとの口にのぼらない。彼は敬意を
はらわれながら、孤立している。
「アラリ・ノという女神がもしノイノイに飽きたら、彼女はも
とに戻ったりするんでしょうか」
「飽きるかねぇ」
 祈祷師はのびをする。そんな望みはないのだとわかった。
「なにを訴えても、女神は返事をなさらない。もう言葉も通じ
ないのかもしれんな」
 眠るのだろう、祈祷師は荷物から薄い毛布を引っ張り出した。
僕もならう。森の木々の間、ぽっかり空いた広場は行く風はゆ
るやかだった。低木につながれた馬は、僕にわからない言葉で
話しこんででもいるのか、鼻面を寄せている。
 目を閉じようとしたとき、たき火をはさんだ向こうで祈祷師

の声がした。
「思い当たることはないか?」
 睡魔は強い。曖昧な返事をすると、声はかぶさった。
「さすがに道が遠すぎる。理由があるはずなんだ。なあ、なに
か思い当たらないか」
「……いいえ」
 祈祷師はそれにはこたえず、ややあって彼の寝息が聞こえた。
 追うように、僕も眠りに落ちた。
 
(※ 本編に続く)










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